ルモンドふじがやシェフのエッセイ

趣味や日々のつれづれを題材にしたエッセイ

狩野川上流・大見川の想い出の友釣り

  

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中伊豆病院下の大見川

 鮎の友釣りの愛好者にとっては、2月になると、もう解禁日の6月1日(一般的)が待ち遠おしく、うきうきした気分になってきます。

  狩野川の友釣りは数年前までは、よっぽど腕のいい人でないと、なかなか“スカット”する釣りが出来ない。多勢の“釣り天狗”たちからは、むずかしい(奥深い)川の一つとみられている。

 東京や、神奈川県、静岡などから友釣りの本当に好きな釣り師たちがやってきて、大仁公園前あたりや、修善寺橋、上、下流あたりの“川原”は釣り銀座ともいわれ、好天気、濁りのないなどの条件がととのえば、土曜、日曜日などは大勢の釣り天狗仲間サンたちで、解禁日はお祭りのように賑わっていた。

 

 ところが最近は、めっぽう、様変わりだ。修善寺の“三田釣具・おとり店”店主の話だと、川原に釣り人を探すのが大変、ちらほら、ぽつぽつ・・・だそうです。

“釣り天狗“たちは、上流へ移動、その釣り人の数は、ものすごく減っているそうです。

下流が釣れなくなった、その理由は、わからないと言っています。

 

 この上流の大見川で8月(夏休み)の思い出の話です。今より数十年前、僕が、40代のころ、母が脳血栓でたおれ、リハビリのため、中伊豆温泉病院(大見川中流の小川橋のたもと)に入院していました。お見舞いのため、静岡から車を走らせ(約2時間)、見舞わった帰り、橋(小川橋)のたもとから、それとなく川をのぞくと、魚が一瞬白い腹を、きらつかせ、鮎が藻をはんでいるのではないかとおもえる光景。釣り人はだれもいないし、これはいけるぞっとばかり。大釣りのチャンスだ!

 次の週、友釣り道具一式を車に積みこんで、東名高速、沼津経由、修善寺、“現場”へとまっしぐら。足場のいい所を探してさっそく竿を出した。おとり鮎を、大石の脇に入れると、いきなりガーンときた。おとり鮎が下流にもっていかれ、竿がしなるしなる、折れんばかりに。よみ、すべて的中、ドキドキ心臓がなる。一匹目は、ばれる(身切れ?)ガックリ。おとり交換して次を狙う。またばれる。流れが強い、魚も大きい、3回目の当たりは竿を立て、集中して慎重に、ゆっくりゆっくりと淀みを探しながら、やっとタモの中へ落とし込んだ。20センチをゆうに超える大物。しゃがみこんで、ビシャビシャ、膝ガクガク、安堵と喜びが、どっと押し寄せて・・・。 

 

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縄張りの大石             荒瀬のポイント

 見舞いを兼ねながらの釣行、十数匹の“戦果”をあげ、その日の帰り際、釣った鮎を入院していた母に見せると、「調理場に頼んで、塩焼きにして食べたい。」というので、渡して帰りました。「美味しかったよ。」という話を後で聞きました。

 当時の中伊豆リハビリテーションセンター調理場の皆さんには、大変お手数をお掛けしたと思いますが、本人は大変喜んでおりました。遅ればせながら、紙面を借りて私からも厚く御礼申し上げさせていただきたいと思います。

毎週のように大見川へ行き、友釣りを楽しませていただきましたが、誰からどう伝わったか、この場所が釣れるということで、大勢の釣り人が押し寄せ、大変賑わうようになった。釣り会の競技会が、開かれる事もあった。

それから、しばらくして、一日竿を出しても、一匹も釣れない”ぼうず”の日が、何度か続きました。なぜなんだろう?どうしてなんだろう?釣れなくなった川には、午後三時頃になると、ほとんどの釣り人がいなくなりました。私は、木陰を探して昼寝をしていましたが、えん堤の淵から下のザラセに最後の一投とばかり、竿を出してみた。

入れれば掛かり。また掛かり。手返しで大わらわ。生かしの中が、魚でいっぱい。生かし船もいっぱい。夕暮れで、薄暗くなってきたので終わりにしましたが、こんなの初めての経験。本当にびっくり。何故なんだと考えました。・・・。

鮎は、警戒心が強い魚なので、真昼間、大勢の釣り人の影や、足音でおびえ、えん堤の淵の中に逃げこみ、静かになった夕方、浅いザラ瀬(小石でチャラ、チャラした流れの瀬)にお腹をすかせていた鮎さんが、どっと出て来たといゆうわけ。、結果的に待ったことが大漁の幸運につながった。

我慢して待つことのたいせつさを、この釣りから教えられた。いないところを、いくら竿をだしてみても反応ありません。商売も似ているところが多いなあーと、つくづく感じます。

 

 私の母は大正の生まれでした。84歳で亡くなりました。大変気丈な人でした。小さな運送店をしていましたが、口下手な父をしり目に、単独で名古屋陸運局(当時は運輸省)にのりこみ、運送業の本免許(法人)を取ってきたという、"おんなさむらい"、と言うエピソードの持ち主でした。料理の腕前もよく、味はもちろん盛り付け上手だった。おせち料理がうまかったので、正月はよく、人が集まって長居する人が多い家でありました。私の料理の原点は、母の料理にあると思っています。母は、料理の習得は戦時中、お屋敷の家へ奉公に出され、お手伝いをしながら覚えたといっていました。            話しがやや横道にそれてしまいましたが、”中伊豆病院下の大見川の友釣り”は、私にとっては、いろいろな意味で、自然から学ぶ大変良い勉強の場となりました。楽しい”1級品の思い出”となりました。感謝・・・・・。

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中伊豆病院                 小川橋

       ※写真は、令和3年に撮影したものです。水量は、通常は半分位です。