ルモンドふじがやシェフのエッセイ

趣味や日々のつれづれを題材にしたエッセイ

鮎のとも釣り

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安倍川奥山のせせらぎ

 

鮎は、なわばりを持つ魚として知られていますが、その習性を利用して釣るのが友釣り。釣り上手な友だちに、手を取り、足をとって教えてもらい、やってみると、なかなか難しくて奥深く、論理的で、大変おもしろい。

西瓜のような香りと、よこはらに黄色い斑点がついていて、その姿は流麗で清々しく、まったく美しい。

一般的に、清流の女王といわれるゆえんだ。

 

鮎つりには、石川釣り(どぶつり)、餌釣り(シラスのエサ)、おち鮎などを狙うゴロ引きなど、いろいろありますが、友釣りは大きく育った、縄張りを持つ鮎しか釣れないため(群れを成してる鮎や単独行動のヤマメなどが釣れることもある)、石川釣りや餌釣りなどで釣れる小鮎は、まずかからない。

鮎は、年魚といわれ、秋には上流の奥山の清流から、だんだんと下り、川尻の浅瀬で産卵する。卵からかえった稚魚は、春まで海で育ち、およそ5、6センチ程の大きさになって、桜の咲く3,4月ごろ川に遡上してくる。6月1日(一般的に)が解禁日だから、2か月ほど、川苔をはんで(石に付いた苔を口でこすりとる)20センチくらいに育った鮎を釣りあげようというもの。大きく育てて取るという、カッコ良くいえば自然に優しい「循環型自然漁法」と言えるかもしれません。

 

鮎は、ヤマメやニジマス、ウグイなどと違って清流の魚の中では、引きが、けた違いに強い。おとり鮎は、掛かった野鮎に引きずられて、急流の大石、岩の間を上ったり、下ったり、白いお腹を見せながら泳いでいる。野鮎は決して弱い姿は見せない。竿を急いで立てて、こらえないと糸が切れて、吹き流しの浮きめにあう。引き寄せて、手前まできたと思ったら、また下流へのながれにのってむこう岸まで。こっちは胸躍らせ大石の間をつまずきそうになりながら、下がってまたさがって、まるで川辺での運動会・・。このやり取りのプロセスを無事かいくぐって、やっと手元に寄せて、タモの中に落とし込んだ時は、安どと嬉しさで足が、がくがく震える。こんな場合は釣れた魚も大きく20センチクラスの大物だったり。

 

そんな解禁日の昼下がり、釣りを終えて川から上がって、車の周りに、帰り支度のため集まった釣り人達の輪ができる。みんな満面、笑みを浮かべて、にこにこ、その日の釣果を話してくれる。沢山釣った人、大物を釣った人、がんばってもあまり成果があがらなかった人。

釣れなかった“釣りびと‘”ほど、逃がした魚の話は大きい。声が大きくてソプラノ、広げた両手の幅がだんだん広く大きくてなって、さすがに気づき、また、縮めたり。居合わせた釣り師のみなさん、気持ちは“経験的”に良くわかるし、笑顔で合わせながら聞き役にまわる。山奥のせせらぎを聴きながら、いい雰囲気。体はどっと疲れているが、心は晴ればれ。充電は十分にできたようです。みんな元気をもらいあってにこにこ。

 

友釣りは、釣りの中では最も難しい釣りと言われていますが、なぜそんな釣りをやるかと・・・。口に針がかかるのではなく、背掛かりの鮎は、引き方が半端ではなく、手元に引き寄せるまでのハラハラ、ドキドキは一度知った人にはやめられない。天然の鮎は、姿が綺麗なうえに香りが果物(スイカ)のよう。とっておきの、このにおいは、その魅力を際立たせている。

 

 

食べる楽しみの側に回っては、あら塩をふった炭火焼が旨いという。お茶を使って煮しめる甘露煮はお正月料理に向いている。酢の物も、刺身もおつまみに申しぶんない。

京都の料理屋さんでは、食通のお客様がお皿のうえで塩焼きの鮎の頭をおさえて、身のほうを箸でやんわりとほぐし、頭とともに背骨を抜き、きれいに残った身をたべる。品のある食べ方だとつくづく思う。食べるその仕草にも大変“味”があり、一つの食文化とも言えそうだ。

 

川釣りと、たかが釣りじゃあないかといえますが、新型コロナで自由に行動が出来ず、ストレスが充満している人たちにとっては、かけがえのない最高の気分転換の場だ。河原をたくさん歩くのも健康にはもってこいだ。僕の釣りは、昔ながらの流儀と手順を大切にしていることと、野鮎の“資源保護”の観点からも、ほどほどの釣果にしている。最近の進歩した超軽量のカーボンファイバー竿、0.02ミリ~のワイヤー水中糸、針を3~4本束ねたかけ針など、考えられないほど進化したこうした道具では、鮎さんもたまらない。農薬による水の環境悪化で川魚が激減しているという現実と合わせて、友釣りの先行きは明るいものとは、とても言えない。僕は、人間が、温暖化で地球に住めなくなってしまうのではないかと、危惧している問題と重ね合わせたおもいに見えてならない・・・。

自然をよく見、自然に親しみ、自然に溶け込んで、歩んできた少年時代からの生き方が、僕を支え続けている。                                              一年のシーズンを通し、のんびり、ゆったり釣りのできる“大自然”の河原であってほしいと、願わずにはいられません。大人も子供も、無邪気に、屈託なく大声をあげて、ワイワイと楽しく“一緒に”なって遊べる場であってほしいと思っています。

 

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安倍奥の清流の鮎